社会のレースから降りたら楽な生活が待っている?

昨日オリンピックが開幕した。

直前にも関わらず関係者が辞任したり、解任されたり。

現場における実働部隊の方々は、さぞかしバタバタしているのだろうなと想像をしていたら、そういえば自分が公務員として働いていた時にも似たようなものだったなと(もちろんスケールは違う)、昔のことを思い出した。

これは何のレースだ?

どこかの組織に所属して働くという状態は簡単に言うと、組織のメカニズムだったり周囲で働いている人だったり自分以外のペースで物事が進んでいき、自分はそれについていっている状態ではないだろうか。

今流行りのオリンピックでいえば何かの競争、例えばマラソンに例えると近いだろうか。

ただし、サラリーマンとして組織に所属して働くマラソンは、走っている場所が同じで景色が変わっていかない感じがするという点だ。

ずっと競技場内を走っているようなイメージだ。

景色が変わらないので、現実のマラソンよりも忍耐力が必要なマラソンだと言えるだろう。

(以下、サラリーマンとして組織で働いている状態を「Sマラソン」と表現する。)

しかもこのSマラソンには現実のマラソンと違い厄介なことがある。

それは、先に走っている人がバナナの皮を投げてくることがあることである(比喩)。

バナナの皮ならまだいい方だ。

人によってはカミナリを落としてくることもある。

カミナリは結構やばい。

それをくらった人は小さくなってしまうからだ。

とまあこんな形で、延々と終わる気配のないSマラソンに参加しカミナリに打たれながら過ごしていると、競技場から外に飛び出す気力もだんだん萎えてきて、この場所以外に居場所はないのだと思い込んでいく、という状態が過去の僕である。

何の大会だっけ?

そういう意味でずっと僕は、Sマラソンに参加していたような気がする。

サラリーマンとしての仕事はSマラソン大会、学校はその大会でなるべく前の方に行くためのトレーニングといったところだろうか。

でも、

  • そのSマラソンで前の方に行ったところで何があるのだろうか。
  • さらに走り切った先には何があるのだろう。
  • あれ?そもそもなぜ走っているの?

よくわからない。

要するに謎のマラソン大会に、知らないうちに参加していたわけだ。

大会を棄権した僕がはっきり言えることは、別にSマラソンに参加するだけが全てではないということだ。

人生の目的とは

そもそも僕の人生の目的は「幸福になること」だ。

さらに余裕があれば他の人も幸福にしたいというぐらいだろうか。

「公務員として社会のために生きているぜ、俺は!」とか考えていた時期もあったが、今となればただの勘違いに過ぎなかったのだと自分の愚かさに、ただただ後悔するだけの日々だ。

まあでもよかった。

あのまま勘違いして生きていたらとんでもない過ちを犯すところだった。

さて、そんなわけだからまず自分が幸福になるためにどうすれば良いのか考えてみた。

まず幸福とは何か。

広辞苑で幸福を調べてみると、「満ち足りていること。」とある。

じゃあ、満ち足りているとはどんなことだろうか?

僕にとっては「多くの時間で良い経験をする」ということだと考えた。

それぞれ良い経験の瞬間に感じる幸福感はもちろんだが、さらにこの経験を思い出として脳に記憶し、後々記憶を介してさらに幸福感が得られる。

そんなイメージだ。

今と昔を比べて

そんな観点で自分の生活を眺めると、公務員時代に比べ今の方が良い経験をする時間が増えている。

それは時間と変化の捉え方が変わったからだ。

具体的にどういうことかというと、以前読んだ本で参考になる考え方があったので、それを元にお伝えしよう。

『生命科学的思考』という本だ。

まず、時間と物事の変化は関係していて、変化が成り立つときに時間が存在するというふうに考える。

何かが動くから時間の流れを感じるということになる。

そして、動きを感知するためには2つ以上の物事が存在しなければならない。

なぜか。

例えばあなたが宇宙空間で一人で浮いているとする。

周りには何もない真っ暗闇で時速100kmで動いていたとしても、自分が動いているのか止まっているのかわからないだろう。

対象物があって初めて自分が動いているかどうかがわかる。

もっとも、この時に対象物が動いているのか自分が動いているのかまではわからない可能性はあるが、時間が流れていることが認識できる。

つまり、変化は複数ある時にそれを比較して初めて認識できる、同時に時間の流れを感じることができるという事になる。

そして、この本では変化を4種類に分けている。

自然変化、環境変化、行動変化、生命変化だ。

自然変化とは地球の自転は1日、公転は1年などの変化のこと。

環境変化は社会の動きや他人の行動による変化。

行動変化は自分の仕事や生活における変化。

生命変化は呼吸や加齢などの変化だ。

そして、それぞれの変化を比較することで、経過する時間の感じ方が変わるという考え方だ。

さて、僕が公務員だった頃は、主に環境変化と行動変化の比較をしていた。

環境変化は、仕事における出来事や周囲の人の動き。(早い)

行動変化は、自分の仕事量や思考の動き。(自分のペース)

この二つの比較になるのだけど、僕は環境変化量に追いつくように仕事をしていた(行動変化を起こしていた)ので、基本的には環境に追い立てられているように感じることばかりだった。

だから、バタバタしたような時間の流れを感じたり、自分はあまり動いていないのに、周りがものすごい勢いで進んでいるように感じたりしていたわけだ。

充実感はなく良い経験をしている時間とは言えなかった。

これは僕が単に行動変化量が少なかっただけかというとそうではない。

サラリーマンは構造的にそうならざるを得ないのだ。

環境変化は組織単位で、しかもほとんどが自分の知らないところや関与できないところで勝手に動くように感じるので、コントロール不可能に感じたり動きが早く感じたりするのは当たり前なのだ。

結果、充実感を得ることが難しくなる。

※ここでは純粋な仕事についての話をしており、もちろん仲間と過ごす時間は充実感があり素晴らしい経験であることは付言しておく。

一方で今の状況はというと、自然変化・生命変化と行動変化の比較が主になっている。

自然変化・生命変化はゆっくり、というか自然な時間の流れによる変化。

行動変化は自分の仕事や思考の動き。(超自分のペースで縦横無尽、早くも遅くもできる)

この二つの比較となると、基本は行動変化を起こすだけで、自然もしくは生命変化のどちらのよりも変化量が多くなるので、充実感は確実に得られる。

しかも、自発的な行動なので、何かに追われている感じはもちろんゼロ。

さらに充実感を増やしたければ、行動変化量を増やせばいいだけなのだ。

こうして、前よりも仕事している量は少ないにも関わらず、良い経験をしている時間が増え充実感も増えている。

結果、幸福度が上がっているのだ。

ゆっくり行くのもいいかも

そんなわけで僕が言いたいのは、環境変化だけを見るのではなく、自然変化や自分自身の生命変化に注目してはどうかという提案だ。

僕のように脱公務員するまでもなく、休日にこの観点で変化を感じてみるだけでも、狭くなってしまった視野から脱することができるかもしれない。

Sマラソン大会を棄権してよかった!

競技場の外に出て、よくわからない場所を歩いているけれど、ワクワクしている。

マラソンしているのではなく、探検や散歩をしている感じだ。

道は確かに続いている。

周りに競争する相手もいない。

ところで、僕らの社会ではマラソンのペースをアップしたら、なぜかさらにペースを上げようとする。

でもペースをいくら上げても行き着く先は一緒。

最後は一人で死んでいくんだ。

参加する大会や行き先は自分で決めてもいいだろう。

決まった目的地もないのだから。