推し、ソンビ|ゾンビ映画が気づかせてくれた人生の指針

今、ゾンビ映画は空前の大ブームだ。

新型コロナウイルスが流行し、ウイルスへの関心が高まったせいか、日に日にゾンビウイルスの存在感が増しているように感じる。

仲間が増えて嬉しいというか、ゾンビの良さを知ってもらえて嬉しい気持ちだ。

何を隠そう、僕も生粋のゾンビ映画ファンなのだ。

ファンになったのは、2006年頃からなので、かれこれ15年ほどゾンビファンをしているベテランだ。

ファンになりたての時期は、手当たり次第に、

『○○・オブ・ザ・デッド』

というタイトルの映画を、レンタルしまくっていたものだ。

ここに、僕が観たオブ・ザ・デッドを評価付きで紹介しよう。

FKが観た!オブ・ザ・デッド(評価は、5段階で5が最高評価)

  • ナイト・オブ・ザ・リビングデッド 3
  • デイ・オブ・ザ・デッド 2
  • シティ・オブ・ザ・デッド 1
  • フォレスト・オブ・ザ・デッド 2
  • レイク・オブ・ザ・デッド 1
  • ランド・オブ・ザ・デッド 2
  • ダイアリー・オブ・ザ・デッド 2
  • ミート・オブ・ザ・デッド 1
  • ショーン・オブ・ザ・デッド 2
  • ドーン・オブ・ザ・デッド 3

見てのとおり、5が一つもないところが、ゾンビ映画の1番の特徴だ。

(駄作が多すぎるため、現在はひとまず、オブ・ザ・デッドの視聴は中断中)

ゾンビ映画の好きなところ

駄作が多いのにゾンビ映画が好きな理由は、安堵感と終末観が表現されているからだ。

安堵感

ゾンビ映画では、ほぼ次のようなストーリーが展開される。

  1. ゾンビ登場
  2. 誰かが食べられ、主人公たちは逃げる
  3. かなり安全な場所でおもいおもいに過ごす※
  4. 安全な場所が安全じゃなくなる
  5. 理想的な安全な地を目指し、戦ったり逃げたりする
  6. ハッピーエンドor絶望的なバッドエンド

ここで、※印に注目していただきたい。

この、映画の中で数分間ではあるが、とても安全なシーンが登場する。

この安堵感が、なんとも言えず好きなのだ。

安全な場所では、主人公たちは思い思いの行動を取る。

ご馳走を食べたり、酒類を飲んだり、歌を歌ったり、人生について語ったり。

短いであろう安堵の時を過ごす。

ここには、人生の儚さが凝縮されている。

今のこの時をとにかく楽しむ。

時には羽目を外しすぎて、そのせいで襲われ、逃亡するハメになったりするのだが、それもまた一興なのである。

終末観

世の中がリセットされ、誰もいなくなった都市の描写は、ゾンビファンからすれば

「よっ!待ってました!」

と、思わず言ってしまうぐらいの待望のシーンである。

「一度は行ってみたい。」と、毎回思うのは僕だけだろうか。

子どもが一度はディズニーランドに行ってみたい、という気持ちと同じくらいだと言えば伝わるだろうか。

そんな感じでモウレツなゾンビ推しの僕は、たまに暇な時に、

「もしも、ゾンビが発生したらどうする?」

という無駄な問いを自分に投げかけ、無駄にシミュレーションすることがある。

シミュレーションのやり方を紹介するので、無駄な時間になるかもしれないが、暇な人はやってみてほしい。

ゾンビパニックのシミュレーション例

準備

まず、この世界にゾンビが発生したと仮定します。

次に、自分の住居はそのゾンビパニックに耐えられるかどうかを考えます。

ここからスタートです。

シミュレーション開始!

僕の場合は、4階建の社宅に住んでいたのだが、運悪く1階に住んでいたので、かなり難易度の高い状態からシミュレーションを進めた。

なぜなら、玄関の扉は頑丈だったので大丈夫だが、ゾンビは窓を破壊して入ってくるから、1階は危険だからだ。

まあ、ホーマックであらかじめ木製の板などを買ってくれば、壁に打ち付けて窓を補強することができるので、ある程度は危険度を下げられるかもしれないが。

とはいえ、ゾンビが大群で押し寄せた場合、木製の板などは、なんの役にも立たないだろう。

そもそも、ゾンビパニックが起きてからでは、木製の板などは大人気商品となり、売り切れ必至だし、今から買っておいても、保管しておくことは困難だ。

そういうことであれば、自分の部屋は放棄して、2階以上の部屋の住人に助けを求めるしかあるまい。

さいわい、同じ建物には後輩がいたので、職権をフルに活用すれば部屋に入れてもらえたはずだ。

一時的に安全を確保したとしても、結局は水や食料の問題、電力の問題が出てくるため、長期間の滞在はできないのだが。

そうなれば、移動するしかない。

車でゾンビのいない、安全な地を目指すのだ。

北海道くらい広ければ、どこかに安全の地があるはずである。

だが問題点がある。

車での移動は、実は危険なのだ。

その理由は、多くのゾンビ映画で、立ち往生した車がやたら登場することからも、明らかだ。

おそらく、車の故障などで動けなくなりゾンビに襲われ、群れに加わっているケースがほとんどだろう。

車の中でゾンビ化しているケースも多く見かける。

また、理論的に考えても危険性は高い。

僕の車は普通車なので、悪路に突入してしまえば一巻の終わりだ。

ガソリンも手に入れられるかどうかわからず、ガソリン切れにより、どうしようもないところで止まっても危険すぎる。

となると、やはり徒歩が最もベストな移動方法なのだろうか。

と、こんな感じで永遠にシミュレーションし続けられるのである。

ゾンビ映画を観ていて思ったこと

こうやって映画を見たりシミュレーションしてみたりしていると、ふと思うことがある。

登場人物たちは、様々な苦難、時には大切な人との別れ、ゾンビに噛まれた腕を感染から守るために切り落とす等、多くの苦難を経験しながら、それでも生き続けようとする。

そんな姿を見ていると、「そこまでして、生きたいと思う理由はなんだろうか」と思うのだ。

ゾンビ映画の世界を別の視点で見てみると、ゾンビは多数派で、生存者は少数派という構造であることがわかる。

ゾンビになることは一方通行であり、生存者からすればゾンビになった後の世界はわからない。

そのため、ゾンビになったらなったで新しい人生があるかもしれないわけなのだが、どれだけの苦難に会おうとも生き続けようとする。

これについて、なぜそこまでするのだろうかと思ったのだ。

なぜゾンビにならず、生存者のままでいようとするのか?

僕が思うのは、「自分の生き方を貫くかどうか」という問題にぶつかるのではないかということである。

  • 多数派になびかない少数派の意地。
  • 自分がどう生きるのかを決めて全うする。

ゾンビになるかならないかは、単に生き残るという面だけではなく、自尊心の問題に思えてくるのだ。

思えば、僕の人生は多数派に影響され続け、なびいてきた人生だったと言えるかもしれない。

こんなに弱い僕がゾンビの世界に行ったら、登場人物たちのように生き方を貫くことができるのだろうか。

昔は無理だったかもしれないが、今なら出来る気がする。

前までは当たり前のことをして、普通の生活を送ることで多数派として生きていたが、今は主夫もやっているし、子どもの参観日に行ったらお父さんは1人しかいないし、少数派を味わっている。

様々な経験をとおして、少数派の経験値を積んでいる感じだ。

そんな生活を続けているので、自分を貫くことの意味も、少しずつわかり始めている気がする。

もしかしたら、世の中にはこんなルールがあるのかもしれない。

  • 自分を貫けば貫くほど、必然的に少数派になっていく。
  • そして、一度人に合わせ始めると、どんどん多数派に近づいていく。

生き方の問題なので、どっちがいいとか悪いとかの決められないのだけれど、人生で1度くらいは少数派を味わってみてよかったと思う。

多数派に圧倒される人の気持ちがわかるからだ。

ひとまず僕は、人生の指針として、自分の好きに忠実に生きようと思う。

ゾンビ推しを貫くことも含めて。