人生に折り合いをつけるのは最後でよいのかもしれない

「血気盛んな今のうちに、元気をふりしぼって、よりよい方向に向かうべきだ。そうした種類の人生の中にこそ、たくさんのすばらしい生き方が、あなたを待っている。」(セネカ)

(人生の短さについて他2篇(光文社古典新訳文庫))

小学生の頃、僕は何者にでもなれると思っていた。

結構本気で、ドラゴンボールの孫悟空くらいにはなれるのだと思っていた。

中学生では、雲を見るのが好きだったので気象予報士になりたいと思ったが、数学が得意でなければダメだと誰かから聞き、諦めた。

そしてなぜかわからないが、その頃には自分は何にでもなれるという自信は消えて無くなっていた。

大学生の時はインディジョーンズの生き方に憧れて、考古学に興味がわき、発掘をしたり研究をしたりして生きていきたいと思っていたが、心のどこかで叶うはずがないと思っていて、チャレンジもせずに諦めた。

こうやって、少しずつ人生に折り合いをつける癖をつけながら生きてきた。

まあ、孫悟空やインディジョーンズになることを諦めたことを、人生に折り合いをつけたと言えるのかどうかはわからないが、ひとまず折り合いをつけてきたということにしてほしい。

大学を卒業して民間企業に就職し、奴隷のように働かされた。

インディジョーンズになっているはずだったのに奴隷になるとは思わなかったので、自分の運命に抗うためにやめて公務員になった。

しかし、社会人になってから、人生に折り合いをつける姿勢は、少しずつ自分にとって自然なことになっていった。

「社会人たるもの、人生に折り合いをつけることが当たり前である」

という考えが世の中にはびこっているように思う。

僕は物分かりが良い方なので、折り合いをつけることの義務を立派にこなし、一人前の社会人になったつもりになっていた。

「別に、ジョーンズ博士と呼ばれなくてもいい。人生はこんなもので普通がいいことなのだから。」と思っていた。

でも年をとるにつれ、そんな消極的な姿勢に退屈し始めると同時に、過去の自分は本当に折り合いをつける必要はあったのだろうかと、疑問がふつふつと湧いてきた。

人は人生に一度折り合いをつけ始めると、それが癖になり習慣化していき「やりたいことで食っていくのは無理なのだ」と思い込むようになる。

生まれながらの個性的なツノは折られ、やりたいことをやりたいという人として当たり前の気力は失っていく。

最後には、自分の本当にやりたいことすらも忘れているのだ。

または、現状に満足しなければ人生が惨めで耐えられないので、満足しようと自分を洗脳するか。

これに似た話として、ゾウは赤ん坊の時に、片方の脚に足かせをはめられ、何時間も頑丈な鎖で大きなコンクリートブロックにつながれるのだという。

鎖でつながれている間はどんなことをしても逃れられないので、それを繰り返すうちに、脚を鎖でつながれているうちは逃げられないと悟るようになり、最後には心理的にコントロールされてしまい、脚が鎖でつながれているかぎり逃げられない、と思い込むようになるというのだ。

多くの人も同じような状態にいるのではないだろうか。

だが、人間は変わろうと思えば変わることができるはずだ。

自分の頭を働かせることの重要性

今なら思う。

数学ぐらい勉強すればなんとかなっていたはずだ。

考古学だって同じだ。

やるかやらないかだけの問題だった。

僕は、社会の暗黙のルールに適合しようとしていただけだった。

なぜなのかわからない。

これまでの人生を振り返ってほしいのだが、自分ではよくわからないけれども、何かの方向に向かって進まされている、と感じたことはないだろうか。

何れにせよ、自分で選択していないとしても、やらなかった後悔は後を引くことがわかった。

「自分で優先順位を決めなければ、他人の言いなりになってしまう。」

「エッセンシャル思考」(グレッグ・マキューン)

誰かの都合によって作られた考え方や常識に、無自覚に染まっており、疑問も持たずに従っていることが自分の人生にどれくらいあるのか、少し考えてみてほしい。

社会人になったら人生に折り合いをつけて、夢は忘れ、食うためだけにサラリーマンをするべきだという思い込みもその一つだと思う。

でもおかしいと思わないだろうか。

過去の自分が「やりたいことをやって生きる人生」という選択肢が思い浮かびもしなかったこと自体が。

僕が勉強不足だったことも原因だと思うが、なぜ自分が「やりたいことでは食えない」と思い込んでいたのか、努力不足だけでは納得がいかない。

学校では定時に登校して、定時に帰るよう指導され、一定の生活リズムを染み込ませる。

学校の先生や先輩が上司のようで、基本的には上からの指示には服従させられる。

まるでサラリーマンの練習のようではないか(笑)

だが、今からでも遅くはない。

自分の頭で考えて、望みをはっきりさせ、選択することを取り戻せばいいのだ。

まずはじめにやるべきなのは、自分の望み(やりたいこと)をはっきりさせることだ。

やりたいことへの情熱を復活させて、折れたツノを根っこから再生させるのだ。

これが僕が考えたことだった。

やりたいことをはっきりさせる

こうして、僕は自分のやりたいことを探す旅を、30代後半から始めた。

やりたいことというのは、以下の式であらわすことができるという。

好きなこと×得意なこと×大事なこと(「世界一やさしい「やりたいこと」の見つけ方」八木仁平より)

全ての項目を知るには、立ち止まって自分自身を見つめ直す必要がある。

僕が思う項目を知る難易度として、好きなことを探すのが最も難しく、次に大事なこと、得意なことの順に難易度が下がっていく。

だが、最初に手をつけるべきは、好きなことを見つけることからでいいと思う。

なぜなら、得意なことは好きなことの中に入っている可能性が高いし、大事なこと(価値観やどう在りたいのか)も好きなことから見えてくる可能性が高いからだ。

ここでは、僕が実際にやってみて効果的だったワークを紹介する。

  • 人生の最高の思い出を思い出しノートに書くこと。
  • 嫌いなものを書き出すこと。
  • 好きだった行動を書き出すこと。
  • 気分が上がるものを書き出すこと。

全部の項目で50個を目標に書き出してみよう。

そうすると、自分は何が好きなのかおぼろげながら見えてくるのではないかと思う。

自分の好きなこと探しのあとは実験するだけ

上記のようなワークをこなして、見えてきた自分の好きなことは、

  • 自分で何かを企画して実行すること
  • 音楽を作ること
  • 文章を書くこと
  • 仲間と協力して何かをやること

であった。

その結果、僕は公務員をやめて、「作曲家兼ラッパー兼エッセイスト」として生きてみることにした。

仲間と協力してやることについては、公務員に飽きた人を誘うなどして、事業を起こそうと想像しているところだ。

というわけで、僕の挑戦は始まったばかりだ。

結果どうなるかは全くわからない。

それが不安だと思う人もいるだろうが、僕は結果が見えている人生は歩きたくなかった。

結果が見えている人生というのは、実際の結果もそれなりの人生か、予想よりも悪い人生しか待っていないように思えた。

目指すビジョンが小さければ、結果はそれ以下になると考えた。

これは、ある意味実験のようなものだ。

僕は気楽にやっているので、どうなっていくのか楽しんで見ていただければ幸いだ。

何かをやりたいという人は、自分探しには役立てるかもしれないので、気軽に連絡してほしい。

最後にメアリー・オリバーの詩を紹介したい。

「教えてください、あなたは何をするのですか/その激しくかけがえのない一度きりの人生で」(

「エッセンシャル思考」(グレッグ・マキューン))

この問いは、少し立ち止まって考えてみる価値はあると思う。

忘れないでほしいのは、人生は短いということだ。

平均寿命が80歳くらいだとしても、健康寿命は男性が平均72.14歳、女性は74.79歳だ。

悠長に構えている時間はないことがわかるはずだ。

忙しいと思っている時間の中にも、考える時間くらいはあるはずだ。

そして、何か行動した時に、あなたの素晴らしい生き方が待っているのだと思っている。

最後にこの記事で登場した書籍のリンクを貼っておくので、ぜひ参考にしてみてほしい。