唐揚げかアートか

世の中のみんなは、お金を使う時にどれくらい迷うものなのだろう。

「これを買おうか、買うまいか」みたいに、アレコレ考えてようやく決断するのだろうか。

人によって程度の差はあるのだろうが、優柔不断な僕はかなり迷う方だと思う。

大昔の話だが、今の奥さんと付き合っていた頃、シューズを購入するために買い物に行ったのだが、半日くらい迷って購入を決めたこともあるぐらいの、優柔不断っぷりだ。

だが、そんな僕でも比較的迷わずに購入に踏み切るものがある。

それはグルメに対してだ。

(グルメと言ってもそこまで高いものではなく、家族分を購入して合計2,000円の惣菜だ。)

先日、あるアーティストの展覧会に行った時の話だ。

その帰り道、いきなりいい香りが漂ってきたので横を見ると、そこに唐揚げ屋があった。

僕は迷わず店舗に入り、迷わず唐揚げを2,000円程度買い、帰路についたのだった。

そこでふと、こんな考えが頭をよぎった。

今日の展覧会では作品の販売をしていなかったが、もしも販売していたとして、僕は惣菜を買うくらい迷わずに購入していただろうか、と。

昔、地下街なんかで、絵画が販売されているのを見かけたことがあるが、その時は数千円から数万円ぐらいの作品が売られていた。

仮にそのクラスの値段設定だとして、僕は惣菜を購入するように数千円を出して作品を購入するだろうか。

おそらく、優柔不断な僕は、半日くらい、ああでもない、こうでもないと迷うのだろう。

でも不思議なものだ。

なぜ、食べてしまえば一瞬で消え去り、再び現れるも下水に流れ去る惣菜には、すぐにポンとお金を払うのに、一度買えば数十年楽しめ、心の健康にも繋がるであろう絵画に、お金を払うことに対して、二の足を踏んでしまうのだろうか。

いや、待てよ。

そう言えば、僕もラップ用のBeat(ビート)を販売しているのだけど、購入してくれた人たちは結構慎重に考えた上で、購入に踏み切っている感じがある。

おそらく、僕が絵画にお金をかける時と同じような感情が働いているのだろう。

なぜだろうか。

そして、衣食住に僕のBeatが勝つにはどうしたらいいのか。

今日は、そのことについて考えてみようと思う。

衣食住がなぜ強いのか

これの理由として考えられるのは、一つしかない。

それは、「衣食住は最強」仮説だ。

例えば、極限までお腹が空いている時に、財布の中身は2,000円として、惣菜か絵画を購入する選択に迫られた時、おそらくほとんどの人は惣菜を買うのではないだろうか。

また、服を着ていない状態で、服と絵画の選択においても、服を選択するだろう。

むしろ絵画を買おうとしようものなら「まず服を着てきてください」と言われること間違いなしだ。

さらに、極限までお腹が空いていて、なおかつスッポンポンの場合、Beatを購入してラップするだろうか。

間違いなく捕まるだろう。

そういうことである。

どうしてもアートというのは、二の次にされがちなのだ。

これは僕の実感から得た仮説であり、的を得ているかどうかもわからないが、先日アートを見に行って感じたことだ。

数億円の価格がつくアートがあることについて

とはいえ現実には、アートに数千万とか数億とかのお金が動いている現実もある。

価格では完全に、衣食住に勝利しているのだ。

じゃあ、一体この現象はなんなのか。

こうなると、そもそもお金とはなんなのかについて、考えなくてはいけなくなる。

お金は実態があるわけではなく、感謝のしるしや価値の交換手段であると考える。

そして、感謝の気持ちや価値というのは、人がそれぞれに感じるものなので定まったものはない。

価格というのは、コストや競争環境によって販売する人が決めた数字だ。

だから結局、人が何に感謝や、価値を感じるかもそれぞれ個別に決まってくるもので、自分にはどうしようもないし、強いとか凄いとかの問題ではない。

価格も自分とは関係のないところで決まっているし、価値とは関係がないので、価格が高いから強いとか凄いとかいうのも違う。

衣食住が強くてとアートが弱いとかいうように、勝負として捉えること自体、ナンセンスなのかもしれない。

誰かにとってはある絵画が、2,000円以上の価値を持っているかもしれないし、別の誰かにとっては1円の価値もないということも実際にある。

僕が大事にしている音楽制作機材は、僕にとってプライスレスの価値があると思っているが、別の人にとっては無価値だということもある。

自分がやるべきこと

こうなると、自分がどうすればいいのか、だんだん見えてくるではないか。

つまらないことを考えるのをやめて、ひたすら自分の実力を上げていく。

僕が作る音楽が誰かにとって、無くてはならないものになりさえすればいいということだ。

なーんだ。シンプルじゃないか。

周りがどういう状態であろうと、自分を磨き続ける。

競争相手などいない。

ただそれだけの話なのだ。

でも、人生ってそんな姿勢の方がうまくいくような気がする。

誰それが出世したとか、誰それが仕事ができるとか、そんなことは本来は気にする意味がないものなのだ。

ほとんど、コントロールできないのだから。

集中すべきは、自分がどう生きていくかということであって、他人の動きに惑わされているヒマはない。

そんな姿勢でいられれば、つまらない嫉妬なんてものもしなくなるだろうし、心はいつも前向きにいられるのかもしれない。

今、自分にできることを虚心坦懐に行う。

これが僕が目指す生き方だ。