卒業式にて

先日、我が子の卒業式があった。

伸びた髭を剃り、ひさしぶりにスーツにネクタイというフォーマルな感じで出席したのだが、卒業式の雰囲気や何の気兼ねなく出席できることへの喜びと感謝を味わうことができた。

仕事をしていた時は、こういう家族のイベントに参加する場合、有給休暇を取らなければいけなかったが、これがまた一手間で面倒だった。

有給休暇を取るには、上司等の許可を得なければいけないのだが、何となく後ろめたい気持ちになるのも嫌だったし、そのことがせっかくのイベントを楽しむ気分に水をさすような感じがして、それも嫌だった。

イベントに参加している間も、「職場から連絡が来るかも」という考えが頭をよぎり、完全に集中できないのも最悪だ。

ところで、卒業式に出席するにあたり、いっそのことスーツじゃなくて私服で参加しようかと大胆な考えがよぎったが、周囲の珍しいものを見るかのような目など、精神的に疲弊しそうなことが予想されたので、無難にスーツで参加した。

というのも、僕は無個性な人よりも、個性的な人の方が好きだし、みんなと同じことをするよりは、違うことがしたい性格だからこんなことを考え出したわけだ。

個性が失われるとき

式では、自分と同じようなスーツ姿の人の一部として、同じタイミングで起立したり、周りに合わせて拍手したり、全体の一部として相応しい行動を取っていた。

そしてふと思った。

「個性が完全に失われている」と。

そして「この感じはどこかであったな」と思い、次のようなことを考え始めた。

皆と同じようにスーツを着て、通勤して仕事する毎日。

通勤中は通勤者として相応しい行動、出勤後はその組織の一員として相応しい行動をする。

そこで一番良しとされているのは、歯車の一つに徹することで、個性はむしろ邪魔だった。

気づけば生活の全部から個性が消えていき、その状態が自然になっていった。

僕は昔から、人というのは本来個性的な存在で、その結果人生も個性的なものになるのだと思っていた。

でも実際はどうだったか。

まず自分の人生に個性のかけらも感じられない。

周りを見渡してみても、みんなの人生が驚くほど似ていて、全くワクワクしない。

自分も含めて。

人ごとの違いは、役職がどんどん上がっていく中で、スピードが違うだけ。

人よりも早く出世すれば「自分は有能だ」と誇らしげになり、遅ければ「自分は無能だ」と落ち込むという無意味なレース。

でも僕からすれば、個性が感じられないので、結局みんな同じ人生を歩んでいるように見えて、「これから自分もこの無個性な人生を歩むのか…」という、ドーンとのしかかる重い絶望感。

いつまで行っても決められたポジション、つまり組織の機関になることを求められ、自分がすげかわっても結局は回っていくという、なんともいえぬ無力感。

「自分は人生をかけてこれをやってきました」という、誇れるものが全くないという、物足りなさ…

個性を失った式の最中、そんなことを考えていたので憂鬱な感じで終わりそうだったが、小学校を卒業する子どもたちの、”これから何者にでもなれる”という希望に満ち溢れた姿を見ているうち、「僕も無個性な人間から卒業しよう!」という感じで気持ちを切り替えることができたので結果オーライだ。

また「やっぱり個性を失っちゃ、つまらないな」と再確認できたので、大きな収穫を得た気分だ。

個性を取り戻す

今考えれば、住む場所も仕事も他人に決められる生活を続けていれば、自己決定権の存在を感じられなくなるというか、信じられなくなるし、それが習慣になれば人生に個性なんて出るはずもないよね、と思う。

人生のほとんどの期間、個性を失っていた僕にとっては今さら個性を取り戻すのも簡単ではない。

だが、それを諦めるということは、自分の人生を諦めるということと同じくらい重大な問題のように感じている。

個性を取り戻すには、自分が個性を失っている瞬間に気が付くことと、生活において自ら選択できる範囲を拡大していくしかないだろう。