やりたいことをやる

「どんな仕事をやりたいか自分で見出して、ただ一心に打ち込むことだ。人より一歩先んじたければ、自分の将来の方針は自分で決めるべきだ。自分に本当に向いた、本当に心から打ち込める仕事から、働く意欲と励みを見出して、成功への道を踏み出すことだ。」

アレクサンダー・グラハム・ベル

カーネギー名言集(創元社)

「やりたいこと、好きなことを仕事にしよう」

就職してから、ずっと僕の頭の片隅にあったテーマだ。

やりたいこと、好きなことを仕事にして、それで人の役に立ったり、喜ばせたりすることができる。

これ以上に最高の状態はないというのが僕の結論だ。

嫌いなことを渋々やっているよりも、好きなことを前のめりにやっている方が仕事は良いものになる。

自分の経験からしても、前のめりに仕事に向き合っている時の方が、学びの効率も良く好循環のループが生まれた経験がある。

例えば、まだ僕が小学生低学年の頃だっただろうか。

『イーアルカンフー』というファミコンゲームがあったのだが、全5ステージをクリアしたらまた最初からという、永遠にループするシステムのゲームがあって、僕はそれをやっていた。

隣には兄とその友人。

普通なら5~10ステージをクリアしたらやめてしまうところだと思うが、僕はそのゲームに前のめりに向き合っていたせいか、気がつけば100ステージ超まで進めていたことがある。

気がつけば兄達はどこかへ消えていたが。

そしてまことに不思議なのであるが、ほぼ同じことを延々と続けているにも関わらず、全く苦痛にならなかった。

しかも進めば進むほど技能も上がっていった。

おそらくこれがフロー体験というやつなのだろう。

やはり、やりたいことをやるというのは、全ての苦痛を超越するものなのだと子供ながらに学んだ。

人生の中で、比較的多くの時間を費やす仕事はやりたいことをやるべきなのだ。

でも世間一般の人たちの考え方は少し違っている。

仕事は辛いものであるという前提

「やりたいことは仕事にはならない」

「面倒くさいことをやるからこそ、お金をもらえるのである」

「お金をもらうというのは辛いものなのだ」

こういう考えを持っている人は僕の周りにも結構いた。

こんな感じで人生に折り合いをつけた人間が、”立派な大人”や”義務を果たした人間”であるとでも言わんばかりの雰囲気があった。

それはそれで一つの考え方だから別にいいのだが、正直、今なら「せっかくの人生なのにもったいない生き方だなぁ」と思ってしまう。

人生に折り合いをつけた人たちは、別に”立派な大人”でも”義務を果たした人間”でもない。

人生に責任を持って向き合っていないだけだ。

むしろ大人達は、若い世代に対してやりたいことをやって輝いている姿を見せた方がいい。

マット・スタッツマンは、生まれつき両腕がないアーチェリー選手だ。

インタビューで人生における目標を聞かれた彼は、

「人生の終わりに近づく頃には、「彼はすべてやり尽くしたね」と思われたい」

と語ったそうだ。

同感だ。

美意識の問題に過ぎないかもしれないが、自分の可能性を追求し続けることが単純に美しいし、その方がきっと楽しい。

人生に折り合いをつけるなんて、この世から去るときでいいだろう。

可能性を追求することが大事

僕は就職してからも自分の可能性を追求し続けてきた。

一般の大人たちから言わせれば、大人になりきれないダメなやつということになるだろう。

でも僕のような凡人にとっては、自分の可能性を信じてやれるのは自分くらいしかいないのだから、そうするより仕方がないではないか。

公務員になって1ヶ月くらいで、司法試験の勉強をしようと考えてみたり、数年後には農業を始めようと考えてみたり、自分の可能性を追求し続けていた。

だがそこには、高尚な動機があったというわけではない。

司法試験は難関に挑みたいというチャレンジ精神と、社会的地位が高くてかっこいいというイメージ、農業は気楽に生きていけそうというイメージで始めただけだ。

不純な動機のせいか、全く形になる気配もなかったが。

そのうち仕事にも慣れ、現状に満足し始め「やりたいこと、好きなことを仕事にしよう」という野望は消え去り、時々嫌なことがあれば何か別の道はないかと思い直し、遠い目をするだけの生活になっていった。

それにしても、公務員になってたった1ヶ月で別の道を模索するとは、我ながらフットワークが軽かったなと感心するものである。

やりたいこと、好きなことを仕事にすることの呪縛

ところが、どうしても諦めることができないのがこの「やりたいこと、好きなことを仕事に」の呪縛である。

その後も司法書士、行政書士、司法試験再チャレンジ等の挑戦を経て10数年後、辿り着いた境地は、

「そもそも自分の「やりたいこと」ってなんだっけ?」

というものだった。

目的地も決めずに「どこかに行きたいな」ということだけで出発して、ただ近くを彷徨っていただけだった。

思えば僕の人生はずっとそうだったのかもしれない。

なんとなく高校を選び、大学も興味のあることで行けそうな大学を選び、なんとなく仕事を選んできた。

人は社会の常識的な環境に染まると、自分のやりたいことすらわからなくなる。

収入を得るために働く、つまりライスワークをただこなしていると、知らぬ間に「仕事は収入を得るためだけの手段である」という考えが当たり前の感覚として身についてしまう。

そのうち人生に折り合いをつけるようになる。

日常生活の影響、習慣の影響は大きいので絶対に侮ってはいけない。

やりたいことがあるのであれば、忘れないよう、その気持ちを大切に維持していかなくてはならないと思う。

自分で人生の目的や、やりたいことを決めなければ、他の誰かが決めることになるのだ。

『イーアルカンフー』100ステージクリアから二十数年後、理由なく難関資格に挑み続けるという意味のない行動を繰り返していた僕は、ようやく「自分探しの旅」に出発したのである。

それは、30代後半に差し掛かかった頃の話であった。

自分探しの結果わかったこと

古今東西の書物を読み漁り、思索にふけ、自分探しの旅から帰ってきてわかったことは二つだ。

“完璧な”やりたい仕事はないかも

“完璧な”やりたい仕事なんてものは凡人には見つからないかもしれないということだ。

やりたい仕事が見つからないということではなく、”完璧な”ものは見つからないという意味なので、誤解しないでほしい。

それはやりたいことも含め、人の好みというのは非常に移り変わりやすいものだからだ。

年齢とともにやりたいことが変わっていく可能性があるのだ。

しかも、やりたいことというのは試してみないとわからない。

やってみてやっぱり違うなと思うこともあれば、やっぱりこれが天職だと思う場合もあるだろう。

いつ何があるのか分からないのが人生の醍醐味だと思うが、現状に満足して自分の理想を探すことをやめた人には何も起こらない。

守りに入った人には、予想外の悪いことしか起こらないと言ってもいいと僕は思っている。

(停滞はマイナス。良い変化があまり起こらないので、悪くなる一方だという意味で。)

探し続けることで、やりたいことが見つかり、何か良いことが起こる可能性がある。

単純に、自分には可能性がないと思って数十年生きるよりも、可能性が無限大だと思って生きた方が楽しいよね、という話でもあるが。

自分がどんな風になるのか、決めるのは今この瞬間の自分なのだ。

リアルに考え始めると経済的問題が邪魔をしてくる

やりたいことが収入に結びつかない、と悩む事例はよくあるパターンだと思うし、僕もそうだった。

実際、公務員をやめる検討をし始めた時、一番引っかかったのは収入をどうするか?という問題が一番大きかった。

副業ができるのであれば、まずは副業で稼いでから方向転換するというのが理想だが、副業ができない公務員はそうはいかない。

公務員が他にやりたいことを追求するには、最後には一か八かやってみるしかないのだ。

その時は、転職してもたぶん死ぬことはない、ぐらいに考えて進むしかないだろう。

いやむしろ、公務員としてイヤイヤ仕事をしていた方が死ぬ確率は高まるのだ、ぐらいに考えてもいいだろう。

カナダのカールトン大学の研究で、人生に目的がある方が寿命が長いという研究結果もあるようなので、そこまで的外れな考え方ではないだろう。

人生で大切なのは目的を持つこと

大事なのは目的を持つことだと思う。

目標ではない。

やりたいことがすぐに見つからない場合は、自分がどう生きていきたいかを先に確認する。

先ほど述べたとおり、やりたいことなんてものは、そもそもやってみなければわからないし、もしかしたら数年後にはやりたくないものになっているかもしれないからだ。

むしろ大切なのは、自分がどう生きていきたいかという人生の目的を考えていくことだとなのだと思う。

弁護士になるとか、ラッパーになるとかいった具体的な目標への“地図”ではなく、「やりたいことを探しながら妥協のない生き方をする」というような、目的地の方向を指し示す“コンパス”を持つというイメージだ。

具体的な職業に執着する必要はなく、その職業によってどういう生き方ができるのか、という視点が大切なのだ。

今は音楽を作ったりブログを書いたりしているが、これもいつまで続けるかはわからない。

飽きてしまったり、別の良さそうなことを見つけたりしたら、そっちに行くかもしれない。

それくらいの姿勢が僕にはちょうどいい。

僕がやらなければならないことなんて別に決まってもいないし、誰かから頼まれているわけでもないから。

人生はロールプレイングゲームだ

「まるで永遠できるロールプレイングゲーム」

PUNPEE『夢追人』PUNPEE feat. KREVAに出てくるリリックだ。

実際、KREVAはラップや夢について歌っているのだが、人生に置き換えてみてもいい。

人生がロールプレイングゲームみたいなものとして考えると、皆さんは、目的のないロールプレイングゲームがあったらやってみたいと思うだろうか。

楽しい人生を歩むのに必要なのは目的だ。

そして、そこに向かって全力で生きることが人生への義務を果たしているのだと思う。