
仕事に行かなくなってからの生活
朝はだいたい4時台に目が覚める。
その後、毎日更新しているブログを書いて、6時過ぎには朝の散歩を始める。
春は桜に癒される。夏は遠くに見える青い山に思いを馳せる。秋は冷たい空気に心が引き締まる。冬は外に出たくなくなる。
朝8時過ぎ、子どもたちが学校に行ってから、音楽を作り始める。
「ヤバいFK弁当」(トップページ参照)よりも質素な昼食をとり、午後からまた音楽を作る。
そのまま夕方になれば、夕食の準備を始める。
最近は手際が良くなり、夕食の準備も1時間程度で終わる。味も悪くないはず。
夕食後は家族で話したり、読書をしたりする。
こんな生活を365日繰り返している中で、気づいたことを今日はまとめようと思う。

メンタル編
幸福感は比較的高い状態が続く
予想どおりというか、期待どおり、仕事をやめてから幸福感は上がった。
しかも高い状態で日々が流れていく。
人から指示されたり、つまんないなと思いながら仕事したり、規則にがんじがらめにされながらの仕事の不自由感から解放されて、自分が舵を握ったことで幸福感は2倍くらいになった。
基本的にやらなければいけないことは掃除と夕食の準備くらいなので、それ以外は何をやろうと自由だ。
掃除は綺麗にしていると、とてもスッキリする。たぶんこの家事は好きだ。
夕食の準備も面倒な時はあるが、基本的に自分が食べたいものを作るので、どんな味になるのだろうとワクワクの方が勝つ。
外的なストレスがほとんどなくても好不調の波はある
外部からの影響が少ないにも関わらず、不思議と気持ちが高まる日もあれば、なんとなく憂鬱な日もある。
何もなくてもそんな感じなのだから、日々外的なストレスにさらされている状態というのは、そもそも相当ハードな状況なのだと思う。
それでも人はその状況に慣れたり、感覚が麻痺したりするので、なんとかやっていけるのだろうし、僕もかつてはやっていたのだけど。
小さな出来事にも精神状態が揺らぐことがわかった
他人との小さなトラブルに対しても、暇ゆえ、深追いしてネガティブになることがある。
また、ネガティブなニュースを見た時の悪影響は、普段ストレスにさらされていない生活をしている者からすれば、精神世界では大事件級のとてつもない出来事だ。
テレビをつければネガティブニュースしか流れていない。マジで。
この影響はかなり大きい。
皆知らないうちに、ネガティブの波に流されている。
結論。
テレビは見ない方がいい。ただし、「人生の楽園」「新日本紀行」は除く。
孤独編
予想していたとおり、孤独を感じる瞬間がある。
家族がいるから真の孤独ではない。社会的な孤独だ。
定年退職して引退した人は、外に出ることが大切だというアドバイスには従った方がいいと思う。
そしてまだ退職していない人には、マジで家族大事だよと伝えておきたい。
他人との会話が異常に楽しくなる
社会的な孤独を味わうことで、家族以外の人との交流が劇的に素晴らしいものになる。
「話してくれてありがとう!」となる。
誰もが面倒だと思う?町内会活動とかぜひ参加したい今日この頃だ。
社会の一員感を味わいたくなる瞬間がある
というわけで、町内会活動でもバイトでもなんでもいいから、何かに所属したくなる時がある。
でもそれが、今一番やりたいことではないため、行動には起こしていない。
たまに昔の腹立たしい出来事を思い出してイライラすることがある
何がきっかけかわからないが、昔の出来事を思い出してイラッとする時がある。
全く生産的ではないので、すぐに断ち切るように心がけることが大切だ。
その後、「社会出るのやっぱめんどくさ」となる。
SNSでの交流に救われる
SNSでのやりとりが、孤独を紛らわせてくれることがわかった。
リアルのやりとりとは違うが、それでも非常に助かっている。
本はこころの友であると気がつく
本当に何人の著者に救われているかわからない。
特にスピリチュアル系の本は、サイゼリヤのヤバい粉ばりにキマる!
読後10秒くらいで普通の状態に戻るが、読んでいる最中は最高にハイになれる!
時間編
時間がウルトラハイスピードで流れる
予想を遥かに上回るスピードで時間が流れていく。
でも考えてみれば当たり前かもしれない。
連休なのだから。
連休は時間が流れるのが早い、と感じたことがある人はたくさんいると思うけど、それと同じだ。
でもやれることは意外と少ない
仕事をしていた時、24時間を自分のために使えれば、あれもこれもできることがたくさんあるよね、と想像していたが、いざそのような状況になってみると、やれることは意外と少ないことを知った。
そこから思うのは、よく「定年退職したらやりたいことをやるぞ」と言っている人に対して、「思ったより全然時間ないですからー!」と伝えたい。
リアルに考えると、時間がないことに加えて、歳をとると気力、体力が衰えているし、そもそも興味を失っている可能性があるから、とにかくやりたいことできない可能性結構あるかもと伝えたい。
365連休で得たもの
自分のことがわかってきた
自分が何が好きで何が嫌いかをはじめ、自分とはどんな人間なのかは、外部から鎖国状態にして自分とじっくり向き合うことでわかってきたような気がする。
サラリーマンとして過ごしていた時は、仕事を円滑に進めるために、上司に忖度したり指示どおりに動いたり、職場内では周りに合わせたりすることが多かった。
だがそういったことを繰り返しているうちに、自分の軸が揺さぶられるような感覚、揺さぶられる軸を感じられればまだいいが、軸など無いような心境になっていた。
そのうち、自分が何者なのかわからなくなっていくわけで、
公務員をやめる直前の僕は、「自分とは何者か=公務員の役職」としか語るものがなかったくらいだ。

結果導き出した黄金の法則
※この後、自己啓発本の読みすぎで「法則」を連発するので注意
外的なストレスはなくても気持ちには好不調の波があると書いたが、その波の発振源は自分だったりする。
昔だったらどうでもいい些細なことに対してですら、自分がネガティブに解釈するせいで気分が悪くなることが目に見えてくる。
外的な出来事が少なくなったため、より自分の内面で起こる波に気が付きやすくなったからだ。
この1年間を振り返ると、基本的にこのパターンを繰り返している。
わざわざ自分で気分を落ち込ませるネタを、手ぐすね引いて待っているかのように些細な出来事に飛びつく。そして落ち込んでいく。
自分でもコントロール不可能な部分で動き出すこの精神活動に驚くばかりだ。
ここから導き出される法則は、人間はどんな状況でも解釈の力を使って落ち込むことができる生き物であるということだ。
そしてこれを逆にすると、無敵の法則が導き出される。
落ち込むかどうか等が解釈次第なのであれば、
人生は解釈次第
ということなのだ。
そんなことはわかってますよという人もいるかもしれないが、僕から言わせれば、おそらく本当の意味で理解していない。
外部からの働きかけが、極端に少ない中で自分の精神活動に向き合ったという経験ならではの理解なのだ。
日々あらゆることが立て続けに外部で起こると、それによって自分の精神が揺さぶられる感覚になってしまう。
外部と接触を繰り返しているとどうしても、精神活動の波の原因が外部にあるのか内部にあるのか見分けがつかないのは、仕方がないと思う。
だが、ライク・ア・鎖国状態で過ごしていると、真の発振源が自分の内部にあったということがわかってくるのだ。
人間は黙っていても好不調の波が発生する。
でもそれは、自然と収まり元に戻るものでもある。
やりたくないことをやっている時間はない
さまざまな偉人が言っている「やりたくないことをやっている時間はない」の言葉の意味を、真に理解することができた。
まず、時間が流れるスピードは以上に早いこと。
そして、いつ死ぬかもわからないという人生であること。
テレビゲームであれば最後のボスを倒せば終わる。
つまり、終わりのタイミングを知ってゲームを進めるが、人生というゲームは誰も自分の終わりを知らないで生きている。
もしかしたらそれは、明日かもしれないし1年後かもしれない。
しかもランダムに起こるという、鬼のような設定の存在を皆は忘れているようだ。
それでも多くの人は、やりたくないことをやらないと生きていけないと言うだろう。
それに対しては否定も肯定も、今はしない、というかできない。
結果は、それぞれが自分の人生で確かめるしかないからである。
ところで、やりたくないことをやめる生き方というのは、自分の人生を大切に生きることにつながるのではないかと思い始めている。
苦痛に耐えて、自分の望みを優先させるよりも安全なところに留まり、やがて歳を取り動けなくなり、何をやってきたのかよくわからないなと思いながら死んでいく人生と、自分の望みに向かってチャレンジしてきた人生。
どっちが自分の望む形なのか何度も考えたが、一度きりの人生、とんでもないスピードで過ぎ去り戻らない時間、それらを総合的に勘案するとやはり後者の方がいい。今は。
この先、どんな生活をしていくかわからないが、チャレンジしているという事実だけで結構満足している。
以上が、365連休を過ごした感想だ。